歴史
養老年間に浄定という行者が白山の泰澄大師に帰依してその弟子となり、大師から授かった阿弥陀如来の像をまつって一宇を建立したのが始まりという。嘉禎元年(1235)願正房願慧という人が親鸞聖人が関東から上洛のとき羽島郡足近村に逗留され、その時教えに深く帰依して改宗し、法名を光宗と授かった。後の寺号の基である。戦国の世、厚見郡宇佐村に辻利兵衛義成という人が、実如上人に帰依し剃髪して法名を法乗と授かり、永く荒廃していた願正房を興して房主となった。光宗寺の第一世である。
歴代住職
- 第一世 法乗
- 石山合戦には顕如上人に従って信長と戦い戦功があった。兄の慈雲が死去した跡を継いで、加治田の願正房の房主となる。この頃の房の位置は、加治田栃洞の小字堂洞にあったと思われる。 後にその北西、近くの寺洞に移転。
- 第二世 願性
-
- 第三世 願正
- 慶長10年(1605)、准如上人より寺号を光宗寺と賜る。
- 第四世 玄了
- 正保3年(1646)寂。
- 第五世 玄佐
- 承応元年(1652)寂。
- 第六世 玄昌
- 中興の祖。寺洞に古御堂建立、延宝2年(1674)梵鐘を新鋳(太平洋戦争に供出)。宝永7年(1710)寂。
- 第七世 円解
- 俳人。宝永元年(1704)寂。「おんづめはかうでやあらふとゆき詠」(辞世)。現在光宗寺に句碑として建てられている。
- 第八世 玄隆
- この代に寺洞から現在の中町の地へ移転。本尊阿弥陀仏を修理再興。宝暦4年(1754)寂。
- 第九世 文教
- 寛保2年(1742)寂。
- 第十世 台鷲
- 詩文に長ず。寛政7年(1795)寂。
- 第十一世 欖慧
- 詩文に長ず。現在の山門・経蔵を建立。天保8年(1837)寂。
- 第十二世 宣教
- 天保年間、現在の本堂を建立。明治2年(1869)寂。
- 第十三世 得善
- 明治44年(1911)寂。
- 第十四世 善定
- 京都帝国大学卒業。大正4年〜8年住職後、旧制高等学校ドイツ語教官として、山口・名古屋・静岡に勤務。昭和10年独和辞典を著す。昭和12年(1937)寂。 正四位勲四等に叙せらる。
- 第十五世 良祐
- 大正12年庫裡その他改築。昭和17年(1942)本山布教使として出張中函館で入寂。
- 第十六世 良雄
- 昭和23年梵鐘新鋳、昭和27年慈雲保育園開設、円解句碑建立。平成20年(2008)寂。
- 第十七世 良尚
- 現住職。名古屋刑務所教誨師、元 笠松刑務所篤志面接委員、美濃加茂人権擁護委員。
- 若院 尚人
文化財・寺宝など
- 銀杏の木
- 樹齢約400年
- 木像阿弥陀如来
- 泰澄大師作 鎌倉時代
- 実如上人御名号
- 1504〜1520年
- 阿弥陀如来
- 1570年
- 聖徳太子 七高僧
准如上人 - 1660年
- 円解(光宗寺第七世、蕉門の俳人)句碑
▲銀杏の木
▲円解句碑「おんづめはかうでゃあらふとゆき詠」
参考文献:『富加町史』下巻 通史編